家系研究協議会 平成17年度春の例会報告

日時 2004年4月25日(日)  14:30~16:00
場所 大阪市立アピオ大阪 302号
当日の参加者は31名(一般参加9名含む)でした。

講演 『一の谷合戦の真相を物語る 白川鷲尾の系図』

講師 梅村伸雄氏(兵庫歴史研究会会長)

概要(私が覚えている範囲で簡単に紹介)

1.「一の谷」は現在の須磨区にある一の谷ではない!

 のっけから衝撃的な新説?を打ち出され、まず頭が混乱してしまった。
平家物語などで書かれている「一の谷」は現在の湊川あたりで、難波の一の谷と呼ばれていたもので、平家の都、福原にほど近く、現在の地名が残っている鵯越からも近い。
従来の須磨区一の谷説では逆落としした場所から遠いという疑問があったが、これなら納得する。
(ただし、従来説は鵯越の場所は現在の鵯越ではなく須磨にあったとしているので矛盾はない)
平家はこの湊川を西木戸に、生田川を東木戸として、福原を守っていた。

2.鵯越で出会った老人は、偶然出会ったのではない!

 またまた、新説?登場で再びパニックになってしまったが、白川鷲尾家に伝わる系図によると、この家は古代から続いていた矢田氏(応神天皇皇子の額田大中彦皇子の子孫)という一族であったが、平安末期の当主宣維(白川畑村の人)の娘が京の公家源雅通の妾となって、通直を生み通直は白川付近で土地の開発を行ったが、その子が興延と言い、京都で伯父である土御門通親の案内(梅村氏説)で義経に会い、義経より道案内と一の谷付近での仮城の建設を依頼され従軍。
鵯越で出会った老人とは実は通直のことで、事前に興延から連絡があって道案内したことになっている。
興延はこの時の功により鷲尾姓を賜わっている。また通直とともに道案内した興延の幼い弟2人にも、それぞれ鷲尾三郎経久、鷲尾四郎義久の名前を賜わったということだそうです。

講演中の梅村先生

講演の風景

3.その他

    • 鵯越の語源は
      • 当時、但馬からの日雇い(日用取)を鵯と言っていた。その人たちが越えた坂だから
      • 天智天皇の時代に、家臣が表取りしたことに因んで

などの説がある。

    • 一の谷で一番活躍したのは、平山季重でも熊谷直実でもなく、多田行綱である。このことは一の谷の合戦報告で唯一苗字だけでなく名前も出ていたことで、伺える。実際に平盛俊の籠っていた明泉寺を攻めた功績が義経の逆落としを有効にさせたようだ。

4.白川鷲尾系図の展示

 講演の最後に、白川鷲尾家のご当主鷲尾寧一氏がご持参された「白川鷲尾系図」を皆で閲覧した。

本会会員に系図の説明をする鷲尾寧一氏

その後

鷲尾系図の展示の後、怒涛の展示ラッシュ!

 まずは、会員の花岡昭雄氏より、現在取り組んでいる幅1メートルのロール紙に全長10メートル以上に渡り調査した系図を印刷するという高度な技術による系図サンプルの展示があった。
内容は歴代天皇の系図とか、藤原氏の系図の他にも、著名人から依頼され調査した系図などもあり、見ごたえがありました。

 次に、一般参加の大阪の白石さんより、自家に伝わる大洲藩士大野・白石系図の展示。
天智天皇から続く系図に興味津々で見せていただく。是非鑑定して欲しいという依頼であったが、詳細が不明なので、後日また機会を設けてやりましょうということになった。

事務局からの連絡

(1)9月10日(土)に当会、創立25周年記念講演を行います。
講師は、『武功夜話』の全訳された吉田蒼生雄氏です。演題などは未定ですが期待できる展示会を行う予定。

(2)会誌39号を参加者に配布
(3)会報の原稿募集
発行は原則として年4回の例会日になりますので下記のとおりお願いします。
2005年 7月分の締め切り  6月末日
2005年 9月分の締め切り  8月中日
内容は
地域情報の提供
質問コーナー
資料の紹介
運営・企画への提言
など何でも結構です。
会誌の原稿もよろしくお願いいたします。

会誌・会報の原稿の送り先、会誌のバックナンバー希望者は事務局長の島野穣 氏まで

閉会挨拶及び記念撮影
今回、デジカメを持ってくるのを忘れたので、写真より複写しましたので、技術が未熟のため画像が悪いです。
申し訳ございません。

(報告者:馬原浩一)